ヴェルニー公園の薔薇
11月と12月のはじめに、時間つぶしを兼ねJR横須賀駅そばのヴェルニー公園を歩いた。
横須賀駅前は殺風景なものだが港の方に向かうと、公園がありいろいろなバラが咲き目を楽しませ、「とげとげしい」気持ちをなだめてくれる。
軍港らしく、戦艦陸奥の大砲や潜水艦がお出迎えだが、そばにきれいなバラが咲いている。
こんなにきれいな花に、何故棘があるのか分からない。これは「ノックアウト」という名のバラ。
「薔薇よりも濡れつつ薔薇を剪り(きり)にけり」 (原田 青児)
俳句では「薔薇」は夏の季語になっている。
足をすすめて、これからいろいろなバラをご紹介します。
これは、「ペイント ザ タウン」。この花で街を彩って、というメッセージがこめられているそうです。
この公園で感心なのは、バラの詳細な説明がきちんと看板に表示されていること。これは何だろうと思わなくて済む。
ご覧の通り。
ここからは11月に撮ったもの。
ピンク系が多いが、この白いのは「ホワイト ウイングス」。
これは「チャールズ レニ マッキントッシュ」。
この気品のあるバラは「プリンセス サヤコ」。元 紀宮清子内親王のお名前がついているバラ。
純白な白か。「ブラッシュ ノアゼット」。
横須賀駅前は、「何もないなあ」と言うなかれ。勇ましい自衛艦やイージス艦だけでもない。花を愛でて深呼吸してみよう。
妻とゆっくり歩いた。屋根が帽子のような形の建物がある。
横須賀造船所の跡地。明治時代にその造船所を発展させたフランス人、フランソワ・レオンス・ヴェルニーの名から取った公園。整備途中の様子だったが、バラをのぞきながらブラブラ歩き、そのうち肩の力が抜けている自分に気がついた。
普段はあまり着飾ることをしない妻の手を引っ張って、アメツチテラスという店に入った。外国(アメリカ?)の雑貨がいろいろ並べられている。
妻は、指にはめる小さな銀色のリングを手に取った。「これがいいわ」
指にリングをはめて、手をひらひらさせた。おしゃれに見えた。
「足りるかな」と思いながら千円札を渡す。
レジから戻った彼女はお釣を返そうとする。手の平に載って差し出されたお釣は、692円。小銭のすき間から指のリングが光っていた。
※スマホで記事を読むとバラの色が濃く見えますが、実際はもう少し薄いです。
例えばプリンセスサヤコは薄いピンクです。
初恋の話し
「いつ渡そバレンタインのチョコレート」 (田畑美穂女)
まだ暑さの残る9月の中旬だった。妹は、8月19日に診察を受けに行った病院で即入院となり、ベッドに横たわったままの生活を送っていた。
容態の落ち着いていた妹が、病室の窓から見える小山を指さして「あの山の裏側に、私が小学生のころ好きだった人の家があるの。私の初恋の人。」と、話し始めた。
「その人は、野球をやっていたんだ。
ハンサムでかっこよくて、常に自信満々で、クラスの女の子はもちろん他のクラスの子からもとてもモテていた。
そう、私たちのスターだった。」
「それで、バレンタインの日にみんなで彼にチョコレートを渡そうということになったわけ。
私も行きたいという子が20人位かな、大勢いたので何グループかに分けたのよ。」
「当日はね、グループごとに、エッさ、エッさとあの山を登って行ったのよ。あんな小さな山だけど、エッさエッさと、みんなで❣」
「彼の家に着いて、代表の子が玄関のブザーを鳴らした。インターホンじゃないわよ。」
「私は代表になんかならないよ。とっても引っ込み思案だから、他の子たちの後ろに隠れてこっそり様子を見ているだけ。」
「彼のお母さんが出て来て、彼は留守だということが分かったんだけど、お母さんはとても品の良い素敵な方だった。」
「後日ホワイトデーだったかしら、女の子一人一人にお返しがあった。」
「あのお母さんが選んだのかな。私ももらったんだけど、でもそれは明らかに他の子とは違うものだった。
ドキドキしながら彼から受け取って、すぐ他の子に見つからないように隠した。」
「彼本人からのものだとわかった。
でもどうしたらいいか、私は分からなかった。ただジッとして何も言えなかった。」
「それからね、自宅のポストに手紙が入っていたこともあった。
わざわざ家を探して来たのね。
私ね、海老が追いかけられると丸まってピューっと後ろに逃げて行くでしょ。後ずさりしながら、パッと身を隠すようなことしか出来なかった。
どうすれば良かったのかな、いつか離れて行ってしまった。」
「高校生の頃だったかな、彼が何かのことで片足が不自由になったと聞いたの。
そんなことを聞いても、お見舞いに行くとか何かするということもなく、ただ彼のことを思うだけだった。
でもここからあの山を見ていて、あの時のことを思い出した。彼を忘れていなかったのね。」
「まだバレンタインという日が今みたいに定着していない時に、よくみんなでぞろぞろ階段を登って、山の上にある彼の家まで訪ねて行ったな。エッさエッさと。
その山が、私が病気になってこの病室から見える。身体は動かせなくなったのに。
まさか思いもしなかった。」
どこかの病室で、男性の患者が大きな声を出していた。
「痛ぇなぁ~ へたくそ。お前なんかどっか行っちまえ!」
「もうちょっとだからね。」と、言っているのは看護師さんだ。
「あ~ 痛くてたまんねえよ。やめろってんだよ、このやろ~
警察を呼ぶぞ~ 誰か来てくれ~」
コロナ禍で見舞客もいないがらんとした廊下に、言いたい放題の怒声が響き渡った。
「さぁ、もう終わったよ。よく頑張ったね。
もう大丈夫だよ。」と、看護師さんの落ち着いた声。
先ほどまでの乱暴な男の声は穏やかになり、病院の廊下は静けさを取り戻した。
妹は全く気にしない様子で
「あぁ、この話し、さっきここにいた看護師さんにも話したわ。ちゃんと聞いてくれてたよ。」と、遠くを見つめるように窓の外を見た。
私は、緩和ケアのお手伝いをする「衣(きぬ)の会」のボランティア活動をやり、心理カウンセラーでもあった妹の姿を見つめた。
『… 瞳に 君を焼き付けた
尽きせぬ想い
明日になれば
もうここには僕等はいない
巡る全てのものが
急ぎ足で変わって行くけれど
君を愛してる
世界中の誰よりも
言葉じゃ言えない
もどかしさ伝えたいよ
今も… 』
妹が好きだった山下達郎の「さよなら夏の日」をかける。
ボツボツと、言葉を探すように歌い出された。
定年後は、そのボランティア活動をライフワークにしたいと夢を語る妹。
終末期の患者さんと対面した時に、「ただただ、その人の話しを聴くこと。」が出来るようになりたいと、決意を込めて言った。
最後に君は一際(ひときわ)輝いていたよ。
大人になったね。
しばらく見ないうちに、兄貴よりもずっと立派になったな。
花に囲まれた君の頬はうっすらと染まっていた。
人生を駆け抜けた君。
とてもきれいだったよ。
「起き上がるのなら、今だぞ。」
私の声は小さく、妹には届かなかった。
今は、兄貴の家で静かに休んでいる…
渡り廊下
「はばかりてすがる十字架や夜半の秋」(芝 不器男)
病院は、2カ月を超えての入院は出来ない。病が治癒していなくても出ざるを得ない。
そこで患者の選択肢としては、他の病院に移るか、リハビリ目的の施設に移るとか、あるいは自宅療養で通院するとなるが、いづれも容易なことではないし、現実的な選択でないことが多い。何より病の症状によっては、そう簡単に出来ることではない。
妹の入院している衣笠病院は、ホスピスを併設している。ホスピス=緩和ケア病棟は治療行為は行わない。苦しみを予防し和らげることが目的の施設だ。
治療行為がないということは、本人はもちろん家族にとっても恐ろしいことである。
有り体に言えば、「宣告」を明確に突き付けられたと同じである。万策尽きたと言うのか。
それでもホスピスは「最後の場所ではない」と、患者と家族は力を振り絞って考えようとする。ホスピス行きを受け入れようとする。
現実は受け入れざるを得ないと分かっていても。
もう道は出来ている。
この渡り廊下の向こうがホスピス病棟である。雨がちらつく中、妹はガラガラとベッドに横たわったまま運ばれた。
「澄む水に映る十字架雨が消す」 (稲畑 汀子)
館内の廊下に飾ってある油絵。箱根芦ノ湖を描いたもので、柔らかなタッチと色彩が気持ちを落ち着かせる。
談話室で医師の診察が終わるのを待った。
医師や看護師はとても献身的で、懸命に患者に寄り添おうとしている。
病室にチャプレン(牧師)が訪ねて来た。ほとんど声を発することの出来ない患者と、言葉少なに目と目で心を通い合わせているようだった。
最後に、妻が頬を寄せるようにして声をかけた。
健気にほほ笑みながら、妹は有り難うと言い、ゆっくり手を振った。
「十字架や野茨空しく生ひ茂る」 (寺田 寅彦)
平凡な日々
「有明の月に身の修羅語りけり」 (中村ヨシ江)
病室から空が見える。眠れぬ夜がまもなく明ける。
平凡な日々が続くということの有り難さ。
衣笠病院の玄関前に咲き始めた黄色い花の名は「ハナセンナ(あるいはカッシア)」。別名アンデスの乙女。花言葉は「輝かしい未来」。
敷地内には他にも自然な状態で花が咲いている。
花の名はわからない。何気なく顔を横に向けると咲いていて、心の中に流れ込んで来るかのように感じられたり。道端の小さな花の色が、下を向いていた目にジッと染み込むように感じられたり。
そういうことはよくある。誰かからのプレゼントかも。
「秋の声くるしき息をひそむれば」 (石田波郷)
護衛艦だろう。5隻は確認できる。その勇ましい姿は、実に頼もしいものだ。
離れたところにアメリカ海軍のフリゲートか。右はどこの潜水艦だろうか。
10月2日に撮った潜水艦には、旭日旗が静かに揺れていた。
先日の護衛艦の姿はなかった。
平凡に見える日々の裏側には、様々な努力や忍耐が潜んでいる。
ある日のきのこ飯
「生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉」 (夏目漱石)
妹の入院している病院へ向かう途中、赤とんぼが漂うように目の前に飛んで来た。目を上げると、未だ赤く染まっていない腹を見せながら、スッと空の上に去って行った。
また今年も赤とんぼがやって来た。去年と同じように。
お見舞いに行った帰り、鎌倉駅を降りて妻と西口側に出た。ここから「民芸」を扱っている店まで歩いて行く。
落ち着いた雰囲気の鎌倉市役所を左に見て、トンネルに入る。涼しい風の中を通り抜けると、鎌倉は高額所得者層が多いなぁと想像させる家並み、邸宅が並ぶ。
その道沿いにある「こまめ」というお店で昼食を取ることにした。
妻が頼んだおにぎりランチ。ちょこっとしたおかずが数点ついて甘味もあり、こういう見せ方が女性の気持ちをくすぐるのか。
この店の先を少し行って右に曲がると、佐助神社や源氏山公園に至る道となる。この「こまめ」のようにおしゃれで小さな飲食店が、「あ、ここにもある、あそこにも」という具合に点在している。結構激戦区だ。
「もやい工藝」は、ここに行こうと思っていないと通り過ぎてしまうかも知れない。
明らかな表札、看板がないが、この奥に茶碗や湯飲み、お皿、グラスなど日常生活になくてはならない器が並んでいる。
それらの品々は、私たちの生活に潤いを与え、郷愁が伝わって来るものばかりだ。
ご飯茶碗を包み込むように手に取れば、愛しさを感じる。
その日妻が作った夕食は、サツマイモと茸が入ったご飯。これを買い求めた茶碗に盛ると、ホッコリとした気持ちが湧いてくる。
「平凡な日々のある日のきのこ飯」 (日野草城)
ふと病院のことを想い出し、湯気の立ち上る茶碗を取った。
暑さは続くよ
「塗り箸を渡してゆるきわらび餅」 (金久美智子)
京都の老舗、五建外良屋のわらび餅。透き通る黄金色のわらび餅に、濃い目に煎られたきな粉がかかる。
それは、やんわりと冷たい透明感のある食べ物であった。
私の自宅の近所には、小さな川が流れている。相模川に流れ込む支流の一つで、川沿いに遊歩道もある。
今の時期、夜明けになるとここを散策する人達のざっざっと砂を踏みしめる音が聞こえ始め、起き出した私は部屋からぼーっと、行き交う人たちを見るともなく眺める。
「片陰を行き遠き日のわれに逢ふ」 (木村燕城)
午後3時を回ると、このへんは大変な暑さとなるので歩く人はごくまれだ。今日の気温は34℃。木の葉が萎れている。わずかな木陰にホッとする間もなく、その先の道は炎(も)ゆるように延びている。
4月に美しい花を咲かせていた八重桜の木。葉っぱが裏返り、日差しから自分の身を守るように丸まり垂れている。
蝉はジーッジーッと鳴き続け、カラスはギャーッギャーッと騒ぎ立て電線に飛び移って行く。その羽は汗で濡れたように黒光りしていた。
この暑さの中、生き残るのは鳥も虫も草木も並大抵のことではない。
次の片陰に入ったらゆっくり休むことにしよう。
船橋屋のくず餅
八月に入ったら、すぐに立秋を迎えた。
「秋立つや川瀬にまじる風の音」 (飯田蛇笏)
残暑お見舞い申し上げます。気温は午後3時で32度。
電車が駅に到着し、乗客がどっとホームに降りて来る。改札口では人に揉まれながら駅のコンコースに押し出されると、ラスカの前に出店があった。
それは亀戸天神の船橋屋だった。有名なくず餅やあんみつやところてんを販売している。電車に乗っている時は、アイスクリームを買って帰ろうかと考えていたが、すぐに方針変更。三人前一箱895円のくず餅を購入。
「前から食べてみたいと思っていたんですよ。」と言うと、売り子さんは「気に入ったらまたお願いします。」と奥ゆかしい返事。
なかなか亀戸の天神様まで行けないもの。
なかなか奥ゆかしいパッケージであるぞよ。
箱の中には、きな粉と舟形の容器に入った黒蜜。そしてくず餅。
小麦澱粉を発酵させること450日、消費期限は2日。わずか2日間の「刹那の口福のために」昔からの製法を引き継いで頑張っている。
何とも奥ゆかしい心を示してくれるではないか。染み入るようなきな粉と黒蜜の甘さの中に、弾力のあるくず餅を噛みしめて「口福」を感じた。
葛粉で作られたくず餅とは異なるが、堂々の名物だ。
私には難しい俳句だが葛を詠んだ「高名な」句をご紹介しておきます。
「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」 (芝 不器男)
愛する人を、しっとりと想う句だろうか。そんな気がする。