初恋の話し
「いつ渡そバレンタインのチョコレート」 (田畑美穂女)
まだ暑さの残る9月の中旬だった。妹は、8月19日に診察を受けに行った病院で即入院となり、ベッドに横たわったままの生活を送っていた。
容態の落ち着いていた妹が、病室の窓から見える小山を指さして「あの山の裏側に、私が小学生のころ好きだった人の家があるの。私の初恋の人。」と、話し始めた。
「その人は、野球をやっていたんだ。
ハンサムでかっこよくて、常に自信満々で、クラスの女の子はもちろん他のクラスの子からもとてもモテていた。
そう、私たちのスターだった。」
「それで、バレンタインの日にみんなで彼にチョコレートを渡そうということになったわけ。
私も行きたいという子が20人位かな、大勢いたので何グループかに分けたのよ。」
「当日はね、グループごとに、エッさ、エッさとあの山を登って行ったのよ。あんな小さな山だけど、エッさエッさと、みんなで❣」
「彼の家に着いて、代表の子が玄関のブザーを鳴らした。インターホンじゃないわよ。」
「私は代表になんかならないよ。とっても引っ込み思案だから、他の子たちの後ろに隠れてこっそり様子を見ているだけ。」
「彼のお母さんが出て来て、彼は留守だということが分かったんだけど、お母さんはとても品の良い素敵な方だった。」
「後日ホワイトデーだったかしら、女の子一人一人にお返しがあった。」
「あのお母さんが選んだのかな。私ももらったんだけど、でもそれは明らかに他の子とは違うものだった。
ドキドキしながら彼から受け取って、すぐ他の子に見つからないように隠した。」
「彼本人からのものだとわかった。
でもどうしたらいいか、私は分からなかった。ただジッとして何も言えなかった。」
「それからね、自宅のポストに手紙が入っていたこともあった。
わざわざ家を探して来たのね。
私ね、海老が追いかけられると丸まってピューっと後ろに逃げて行くでしょ。後ずさりしながら、パッと身を隠すようなことしか出来なかった。
どうすれば良かったのかな、いつか離れて行ってしまった。」
「高校生の頃だったかな、彼が何かのことで片足が不自由になったと聞いたの。
そんなことを聞いても、お見舞いに行くとか何かするということもなく、ただ彼のことを思うだけだった。
でもここからあの山を見ていて、あの時のことを思い出した。彼を忘れていなかったのね。」
「まだバレンタインという日が今みたいに定着していない時に、よくみんなでぞろぞろ階段を登って、山の上にある彼の家まで訪ねて行ったな。エッさエッさと。
その山が、私が病気になってこの病室から見える。身体は動かせなくなったのに。
まさか思いもしなかった。」
どこかの病室で、男性の患者が大きな声を出していた。
「痛ぇなぁ~ へたくそ。お前なんかどっか行っちまえ!」
「もうちょっとだからね。」と、言っているのは看護師さんだ。
「あ~ 痛くてたまんねえよ。やめろってんだよ、このやろ~
警察を呼ぶぞ~ 誰か来てくれ~」
コロナ禍で見舞客もいないがらんとした廊下に、言いたい放題の怒声が響き渡った。
「さぁ、もう終わったよ。よく頑張ったね。
もう大丈夫だよ。」と、看護師さんの落ち着いた声。
先ほどまでの乱暴な男の声は穏やかになり、病院の廊下は静けさを取り戻した。
妹は全く気にしない様子で
「あぁ、この話し、さっきここにいた看護師さんにも話したわ。ちゃんと聞いてくれてたよ。」と、遠くを見つめるように窓の外を見た。
私は、緩和ケアのお手伝いをする「衣(きぬ)の会」のボランティア活動をやり、心理カウンセラーでもあった妹の姿を見つめた。
『… 瞳に 君を焼き付けた
尽きせぬ想い
明日になれば
もうここには僕等はいない
巡る全てのものが
急ぎ足で変わって行くけれど
君を愛してる
世界中の誰よりも
言葉じゃ言えない
もどかしさ伝えたいよ
今も… 』
妹が好きだった山下達郎の「さよなら夏の日」をかける。
ボツボツと、言葉を探すように歌い出された。
定年後は、そのボランティア活動をライフワークにしたいと夢を語る妹。
終末期の患者さんと対面した時に、「ただただ、その人の話しを聴くこと。」が出来るようになりたいと、決意を込めて言った。
最後に君は一際(ひときわ)輝いていたよ。
大人になったね。
しばらく見ないうちに、兄貴よりもずっと立派になったな。
花に囲まれた君の頬はうっすらと染まっていた。
人生を駆け抜けた君。
とてもきれいだったよ。
「起き上がるのなら、今だぞ。」
私の声は小さく、妹には届かなかった。
今は、兄貴の家で静かに休んでいる…