エキゾチック横浜・・・生糸戦争
氷川丸。最近は超大型クルーズ船の時代となっているが、氷川丸クラスの客船が落ち着いていて親しみやすいと感じる。総トン数11,622トン。全長163.3m。
船旅は最高の贅沢な時間の過ごし方だ。
一方で、仕事まみれになって一日を終える人もある。
「巴里知らずくらしの汗の帯に滲み」(昭和40年鈴木真砂女)
手前にちょうどカモメ君が羽を休めていたので、急いでシャッターを切った。
横浜港は安政6年(1859年)に開港。9年後の開国に伴い横浜の街作りが進められたが、その設計は英国人ブラントン(横浜公園、日本大通り等)などの手によって行なわれたという。
「茶の本」の岡倉天心の生誕地碑が、横浜市開港記念館のそばに立っている。
前回渋沢栄一と岩崎弥太郎との海運事業を巡る大げんかを書いたが、その頃と並行して、幕末から日本の輸出の中心であった生糸を巡っても大騒ぎが起こっていた。
横浜大戦争=外国商館の横暴な商法に対し、日本の商権復活をかける戦い。
シルク博物館。城山三郎「雄気堂々」によると、初期の生糸は手紡ぎ(てつむぎ)であったため「糸の太さがふぞろいで、まだらがあり、つなぎがよくない。横糸にはなるが、縦糸には使えない」、「このためイタリヤやフランスのものに比べ日本の生糸は粗悪品とされ外人バイヤーに買いたたかれた。」
このため渋沢は、機械式製糸工場を作る。それが富岡製糸工場で、生糸の品質が見直される契機となった。
しかし、蚕卵紙(さんらんし:蚕の卵が産み付けられた紙)の生産過剰が原因で、外商は買わない⇒買いたたきが行なわれる⇒粗製乱造(胡麻粒を貼り付けて蚕の卵にみせかけたもの)まで現れた。
この窮地を脱するため、渋沢は過剰となった蚕卵紙を買入れて焼却することにした。
山のように積まれた蚕卵紙は、弁天通、太田町を経て当時元吉原と呼ばれた今の横浜公園に集められ明治7年10月9日火を点けられた。その炎は、42日間続いたという。
馬車道から弁天通を眺める。
横浜公園内にあるスタジアムは改修工事中だった。
「パンジーが咲き横浜は好きな町」(西村和子)
11月に戻るが、山下公園まで散歩した。外国の港町の雰囲気がある古くて低い建物。
優美なクイーンの塔(横浜税関)。
山下公園の一角ではクイーンのフレディ・マーキュリーの物まねパフォーマンスをやっていて、大勢の人が集まり拍手が起こっていた。
ビニール状の袋をかぶって自分の吐く息でその袋を膨らませ、いよいよ限界というところで両手で自分の耳を押さえ、来るぞ来るぞと思った次の瞬間バッーン!と袋が破裂。見物人がワーッと歓声を上げた。
すごい肺気量だ。パフォーマンスも楽じゃない。
かたやその歓声から外れた公園内に「赤い靴をはいた女の子」像が静かに立っている。
この像、岩崎きみちゃんがモデルという。9歳で結核のため亡くなった。いろいろ諸説、物語がある。
その目は遠い外国に思いを馳せているのだろうか。行き交う船舶に、自分を迎えに来る父母の姿を見ようとしているのだろうか。
感傷的な思いにさせる像である。
11月30日の写真。
イチョウはさらに色づき束の間の、今年の秋が訪れる。
「敷きつめし銀杏落ち葉の上に道」(池内たけし)