エキゾチック横浜…海運で発展した街
「横浜の空の上澄み冬雲雀」(鷹羽狩行)
土曜日のお昼、仕事帰りの自分は作業着、作業靴姿だった。JR桜木町駅を降りるとおしゃれをした人たちが改札口から続々と流れてくる。
ヨコハマでメインの街と言えば、桜木町、みなとみらい地区だろう。エキゾチック横浜の入り口でもある。
大岡川のたもとでは道路でも作るのか工事が進行中。高層のホテルやビルが出来上がり、次々と変貌する街。
重機の音に振り返る。
「バッタ跳んで横浜未来都市のうへ」(高澤良一)
ここから先は、横浜の歴史的な建造物が現れる玄関口。
赤いレンガ造りの建物、これは横浜第二合同庁舎。
東京芸術大学大学院映像研究科の建物も、以前は旧富士銀行横浜支店だった所。年に数回クラシックコンサートを開いているらしい。
次の「馬車道コンサート」は12月3日(火)『ピアノと弦楽アンサンブルの夕べ』(入場無料)。東京藝術大学・大学院音楽研究科演奏。
入り口は馬車道に面している。
馬車道には、ガス灯が設置されている。
明治5年(1872年)に初めて設置された。当時の柱部分は英国グラスゴーから輸入し、灯具は日本製という。
ガス灯の明かりの下、音楽の調べに時の流れを任せる。こんな贅沢な時間の過ごし方はない。
「シェフィールドパークのガス灯」。英国のシェフィールドパークに立っているガス灯と同じものだという。(下の写真)
「ガス灯のつく頃に飛ぶ燕かな」(細見綾子)
こちらの建物は、神奈川県立歴史博物館。旧横浜正金銀行本店本館で明治37年(1904年)竣工。ドイツルネッサンス様式の建物。
正金銀行は明治13年に外国商人主導の貿易金融取引の改善を目的に設立されたもので、外国貿易業務を専門に担当する銀行だった。
文明開化後の日本が、大人になろうと歯を食いしばって努力していた時代に活動したのだ。
横浜関内地区に銀行が多いのも、貿易、海運事業との関連があるためだろう。
関内大通りの港側、海の匂いが濃くなってきたところに日本郵船歴史博物館がある。
横浜と言えば港。港と言えば船。パンフレットによると、日本の貿易量の99%以上は船が運んでいるとある。日本国内でも約44%が船による輸送で、大地震や風水害で道路が使えない時も船は大活躍する。まさに船が私たちの暮らしを支えてくれている。
さて、日本郵船の成り立ちが面白い。
パンフレットには、「国の指導の下二つの船会社が合併して日本郵船が誕生した」とごく簡単に記述されているが、実のところその誕生までには凄まじい葛藤があった。
博物館の内部に入ると、古い木造の図書館のような匂いがする。
始めに展示されているのが、岩崎弥太郎が三菱商会を作って(明治6年)海運業を発展させていったという案内。大きなパネルが設置され、映像が流れる。三菱商会は、政府の応援もあって強大な力を持つ会社となる。創始者の岩崎弥太郎は海坊主と恐れられた。
そこに登場したのが、渋沢栄一。館内では、三菱商会のパネルの裏側にあるコーナーに小さく名前と写真が出ているだけ。まぁ、そんなものでしょう。合併に関しても、岩崎家の力は大きかったのだろう。
城山三郎の「雄気堂々」によると、『栄一としては、岩崎はたのもしい民業仲間であるが、それだけに、その向背が気になった。幼い日本の民業を育て合う方向に力を貸してくれればよいが、仲間を次々に餌食にして行くようでは困る。』とある。
渋沢は、まず明治13年に風帆船会社を設立したが、三菱の凄まじい反撃を見ることになり、対応に四苦八苦。政府がようやく動き出し三菱の動きに規制がかかることになり、明治15年政府の出資を得て共同運輸会社を発足させた。
三菱側も弥太郎没後弟の弥之助の時代となるが、争いは終わらず、貨物船同士の衝突事故が起きるなど収まるところを知らない。
両者ぎりぎり、もう限界というところで政府が調停に出、明治18年に両者合併し日本郵船が誕生した。
正にそのおかげで日本の海運業は大きく前進し、日本の発展に大いに貢献した。
そしてエキゾチックで魅力的な、横浜の今がある。
氷川丸の絵葉書。モーター船。11,622㌧。