ボヘミアン・ラプソディを観に行った❣
平成31年2月27日(水)神奈川県の京急三浦海岸駅前の河津桜を撮影。終点の三崎口駅まで沿線は河津桜が咲き誇り、見事な景色を堪能できる。電車を降りて、桜並木の下をのんびり散策するのがベスト。駅前も屋台が出てにぎやかになる。人が春を待ちわびていたように、浮き浮きとした様子で歩いている。
さて私は待望の映画「ボヘミアン・ラプソディー」を、2月23日やっと観に行った。たくさんの人が観ている映画だし、これについて書かれた投稿や評論も多数ある。今更何を言うのかい、ということを書いてみる。
英国に移住後、人種差別的な言葉「パキ」と吐きかけられたり、さらに独特の相貌で家庭外にあっては友達も少ない孤独な少年期だったのではないか。また家庭内においては、厳格なゾロアスター教徒である父の教育に反抗する時期を過ごしたろう。
彼の友達は、音楽だった。ピアノやギターを弾いた。詩も書いた。この詩の内容が、どこかもの寂しく、少年のやるせない胸中をうかがわせる。
例えば、「ボヘミアン・ラプソディー」の一節。
これは本当のこと? それとも幻想?
地滑りに巻き込まれて 現実から逃げられない
目を開けて 空を見上げて 見て
僕はただの貧しい少年 同情はいらない
だって僕は ふらっと来て 去っていく
少しハイで 少し落ちる
どちらに風が吹こうとも 僕には関係ないから
ママ 人を殺しちゃった 頭に銃を突き付けて
引き金を引いたら 死んじゃったよ
ママ 人生は始まったばかりのなのに
でも 僕は全て捨ててしまったみたいだ
青春の一時期、こんな自己否定の考えにとらわれたことはなかったろうか。
しかし彼は、成長するにつれ音楽の才能を開花させて行った。その出世ぶりは、水を得た龍が天に向かって飛んで行くようだった。英国を出てアメリカでも活躍する。そして「運命」の女性と出会う。
絶頂期。その一方で創作上の悩みがあったのではないか。ただのロックバンドではない。ビートルズでもなければ、ローリングストーンズでもない。俺たちはクイーンだというプライド。さらに上を目指したいが、どこに進めばよいかわからない。どんな曲を創ったらよいのかわからない。そんな時期、段階が訪れたに違いない。
彼をさらに苦しめることが起きた。世間を騒がせること。
彼はゲイだった。それを当時の英国は許容していなかった。英国だけではない。世界は、ゲイに対し独断と偏見に満ちていた。
1987年彼はHIV感染を宣告。
マーキュリーはその迫害のるつぼに落ち込んだ。
追い打ちをかけるように、「運命の人」は彼の元を去り別の男性のもとに行く。クイーンのメンバー間で仲間割れが生じる(事実ではないそうだ)。龍は絶望の底に沈む。
そんな彼が復活を遂げる。
1985年7月13日ロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催された「ライブエイド」というアフリカ難民救済のチャリティーコンサートに出演。そこで彼は、失ったと思われたものを取り戻す。父との和解、運命の人との再会、そしてなによりもクイーンメンバーとの演奏。
会場の扉が開いて、スタジアムを埋め尽くす観客を俯瞰するシーンの時、私はボクシングを題材にした「ロッキー」という映画を思い出した。これは、ロックミュージックによるロッキー版だ。
我ことのように、高揚感が身を包み体が震える。
どうにもならない嫌なことが続いていた。それを超越する音楽の力。そこに多くの人が、日本人が引かれたのではないか。
「ウイ・ウイル・ロック・ユー」
バディ 子供のおまえは大騒ぎ
ストリートからいずれ大物になるだろう
顔には泥が みなにけなされて
そこら中に当たり散らしながら 歌っている
俺たちはみんなを揺さぶってみせる
俺たちはみんなを揺さぶってみせる
バディ 若者のお前はかたくなな男
ストリートから いつか天下を取ってやると叫んでいる
顔には血が みなにけなされて
大きな旗を振り回している (中略)
バディ 老人のおまえは貧しく
何とか世の中に受け入れられようと訴えている
顔には泥が みなにけなされて
誰か おまえを元の場所に戻してやってくれ
フレディ・マーキュリーのような人生を送ってきた者でなければ、書けない詩だ。歌だ。
映画はライブ・エイドの絶頂の瞬間で終わる。先祖の土地から離れた移民の子孫。フレディ・マーキュリー1991年没。しかし彼は素晴らしく生き抜いた。
本当は…最後まで寂しい人間だった。
Aneywey the wind blows 風がどちらに吹いても