ふたたび總持寺へ、祈りの寺
先日現場の仕事が終わって、会社に帰る途中1年前に訪れた總持寺へ足を向けた。ちょうど入学式があったようで、参道で帰宅する新1年生やその家族と行きあった。
桜の季節が過ぎ、山門前の木々の若葉が鮮やかに見える。
「前髪もまだ若草の匂ひかな」 (松尾芭蕉)
入学式帰りの人たちが通り過ぎると、再び静かな空気が戻って来た。
渡り廊下を、座禅を終えて食事に向かう学僧たちだろう。静々と一列に並んで磨かれた廊下を進んでいく。修行が始まっている。
大祖堂で手を合わせ、堂内の椅子に腰かけた。参拝者はいない。
一人の僧が、儀式の練習をしているらしく、同じ所作を繰り返しながら千畳敷の畳の上を歩んでいる。きびきびと歩み、時にくるっと旋回した。
座っている私のそばに、いつの間にか幼稚園の子どもが来て大きな声を上げる。堂内に響き渡る木霊を楽しんでいるのだ。
「春昼やもたれてまろき寺柱」 (大野林火)
一年前に参拝した時、仏殿におられる釈迦如来像を立像と書いたが、今日あらためて拝んでみると、坐像であった。
その時は、輝いたお姿でお立ちになって見えた。錯覚だったのだろう。
仏像に手を合わせながら境内を歩いていると、何やら悲しい気持ちになり胸が詰まって来てしまった。
名残りの桜。もう歩いている人はいない。
手を合わせお経を高らかに唱える一人の僧。読経の声に耳を澄ます。
そして今日、4月11日土曜日。コロナウイルスが世の中に、世界に蔓延している。我が家の玄関に、仕事帰りに買った金魚草を一本飾った。
家人が帰って来てこれを見たら、ホッとするだろうか。
「空白の幼時ありけり金魚草」 (秦 夕美)