茅ヶ崎に住んだわけ

 8月に茅ヶ崎市にある茅ヶ崎ゆかりの人物館で開催されている「加山雄三展」に行って来た。※9月24日日曜日まで

 館内に入ってすぐ加山(以下文中敬称略)が中学生の時に制作したというカヌーが展示されている。

 船底に海中の様子をうかがえる覗き窓が設けられていて、中学生がここまで工夫を凝らすことが出来るだろうかと感心した。

 そしてこの舟を作り上げ、茅ヶ崎のシンボル烏帽子岩まで漕いで行ったというのだから、彼は並みのボンボンではなかった。恐るべき才能と実行力の持ち主だ。

 私が初めて加山雄三を知ったのは、9歳のころ。テレビを通じて、彼の「君といつまでも」や「青い星くず」「夕日は赤く」「夜空の星」などをカッコいいなあと聴いていた。ちょうどベンチャーズ寺内タケシが演奏するエレキギターが流行りだした頃になる。「テケテケテケテケーツ」

 この頃初代光進丸が進水。この写真の模型は熱心なファンが作り上げたもので、今回の展覧会にあたりお借りしたものとのこと。

 少年の私は、彼の歌を聴き映画も観て、さらに大きな船も持っていると知り憧れが膨らんだ。

 日に焼けてたくましく爽やかで、しかも海の男でなくてはならないなどと、男としての理想形を加山の姿に見出したのだ。若大将加山雄三に近づくために、髪型や表情を真似たり、彼の歌を歌ったり、ブロマイドを部屋中に張り付けた(ジャネット・リンも一緒に)。今思えばバカげたことで、全く独りよがりのことに過ぎなかったのだが。

 私の親父は加山が歌うのを聞いて「ただの唱歌じゃねえか」と毒づき、夢中になる私の様子を見ては「色気づきやがって」と鼻で笑った。

 だが、加山の音楽は単純明快に分かりやすく明るく、楽しかった。その曲の魅力を倍加したのは、岩谷時子の作詞だ。「ただの唱歌」ではない。加山の魅力を最大限に引き出したのは岩谷の「詩」があったからだろう。

 岩谷の詩が「湘南サウンド」を作り上げたと思う。しかしあからさまに恋だ、愛だ、口づけだと頬が赤らむような言葉に私はドキドキ、たじたじとなっていた。

 私の家は横須賀にあって、遠足などで箱根あたりに観光バスで行く時は国道134号線を通る。茅ヶ崎が近くになるとバスガイドさんが「皆さん、前方にパシフィックホテルが見えますよ」とか、「この先の信号を右に曲がると加山さんの家があるんですよ。見えますか~」と案内するのだった。

 そうすると生徒たちは、どこだどこだと立ち上がったり首を伸ばしたりしながらみようとする。パシフィックホテルはすぐわかるが、自宅は分からない。

 帰路も「ほらほら、あのうちですよ」などとガイドさんはいうのだが、あっという間にバスは過ぎてしまう。

 結局ずっと分からないまま、時は経ち現在はマンションが建っているというがまだ確かめていない。今度尋ねてみよう。

 展示会場には、東海岸南にあった加山の自宅敷地と間取り図が掲示されており、このような家だったのかと妙に懐かしく思った。敷地は500坪あるという。よく見ると妹さんの部屋もある。妹がいたのかと思いつつ、「ぼくの妹に」の歌を思い浮かんでくる。

 中学生、高校生になっても加山への憧れは冷めなかった。横須賀のこんな狭い所に住んでいたくない。広々していて海が近い所がいい。やはり住むなら、富士山も見える加山がいた茅ヶ崎がいい、住んでみたいという気持ちが私の心の奥底にあったのだと思う。

 そして私は大学を出たけれど憧れた加山のような男になれなかった。当然だ。でもそれはそれでよし。加山の夢は、ファンの夢。自分の代わりに夢を実現してくれるのが、スターというものだ。

 会社勤めを始め2回転勤を経験したが、2回とも転勤先から帰って来た時、実家のある横須賀ではなく茅ヶ崎を選んだ。

 実際のところ茅ヶ崎は広々とした土地ではなく、迷路のような狭い道が多かった。しかし海は近く、空が明るかった。湘南の解放感があった。

 それでもう30年以上住み続けている。

 考えてみると、加山のことを意識しながら引き付けられるように茅ヶ崎に住むようになったというところだろうか。一人勝手に何かのご縁と感じている。

 加山の他に好きな小説家の城山三郎もここ茅ヶ崎の住民であった。彼の簡潔なべたつかない文章が気に入った。

 そして今は茅ヶ崎から飛び立ったサザンオールスターズが全国区で売れて、茅ヶ崎を有名にしている。彼らのサウンドも好きだ。特に切なくやるせない、キュートな曲が。例えば最近では、「いつか何処かで」とか「可愛いミーナ」が好きだ。 

 展示館に隣接するのは開高健記念館。大人の男の小説家という印象。

 ここを降りると記念館になっている開高の家の前に出る。海が臨めそうだ。彼は『生物(いきもの)としての静物』の中でこう書いている。「静かな海岸の松林のなかの書斎に明るい灯がつき」ウイスキーを飲み一人でへべれけになるのである。

 ここには家の周りを一回りすることの出来る「哲学の道」もある。開高は酔っ払いながらぐるぐる歩いたのだろうか。

 光進丸に据えられていた羅針盤

 

 私も来年には古希を迎える歳となるのに、まだまだ知らないことばかり。しかし前を向いて行こう、明日は明日の風が吹く、加山らしくいつも爽やかであろう。

 そうすれば心の中の羅針盤が行き先を示してくれるだろう。加山雄三有り難う。

 「海鳴りきこえる かすかにきこえる

  昨日砕いた帆柱に 吠えてうなった海よ

  昨日は昨日 宜候宜候(よーそろよそろ) 今朝はさらりと凪の風 朝の海…」

  (俺は海の子より:作詞岩本敏男

 加山雄三のギターはマーチンだった。それを知っていたら、俺も買ったなあ。

2023年12月3日加筆訂正。

 

さよならヨコハマ

 先月3月14日の夕焼け雲は、とても印象的な夕景となった。

 月末には8年間務めた会社を退職する。会社の人たちが、焼き鳥屋で送別会を開いてくれるという。

 3月31日夕方、ハマスタ前の喫茶店でコナコーヒーを注文し、一人を飲み始めた。

 ここは私の仲人さんが初めて連れて来てくれた店だ。

   鞄に入れたポケット詩集のページをめくり、濱口國雄の「便所掃除」という詩に目を留めた。そこで描かれたものは、この喫茶店の雰囲気に全く相容れないものだが、読み終えて心洗われたように感じた。 

 私にはここまでの体験はなかったが、同じ清掃という仕事で共感して読むことが出来た。

 送別会の時間が迫り喫茶店を出る。JR関内駅前の大通公園では、パンジーの花がヨコハマの日暮れを待っている。

 パンジーはヨコハマに似合う花。大人の雰囲気を持つヨコハマを可愛らしく表現する花だ。

 「黄昏のビギン」というちあきなおみの歌を思い出すな。

 「雨に濡れてた たそがれの街 あなたと逢った はじめての夜…」

 

 送別会が焼き鳥屋で始まり、周りの酔客を気にしながら、私は先ほど喫茶店でメモに書いた挨拶文を読み上げた。

 「皆さん、今日はお忙しいところ、そしてお疲れのところ、私の送別会に集まっていただき本当に有り難うございました。

 私は、2014年12月に入社しました。大企業のK社など、いろいろなビル清掃の現場に行きました。そして上司が異動したり、私と同じ清掃の代行員仲間がコロコロ何人も入れ替わりましたが、私は生き残りました。

 代行員は、清掃現場の人がお休みを取ったり、仕事を辞めて次の人が決まらないところに行って替わりに仕事をします。

 横浜や川崎や三浦半島にも現場があります。だいたい朝が早いので、開始時間に間に合わせるために起きるのも大変です。数名のグループでやっているところは、やり方を教わり話しを聞きながらそこの清掃の仕方や、話しの中で人間関係を読み取り溶け込むための勉強をしました。

 勉強といえば、K支店長からは東京のビルメンテナンス協会で行われた講習に3回も通わせていただきました。ポリッシャーの操作がうまく出来ず、ビルクリーニング技能士の資格は取りませんでしたが、講習で得た知識はその後とても役に立っています。

 私のやっていたマンション清掃は、仕事自体は難しくはないけれど手を抜けば後で元に戻すのが大変になる。日頃からコツコツと掃除しなければいけない仕事です。

 病院やホテルなどの清掃は、はるかに正確な知識と「修練」が求められる難しい仕事です。

 私は、マンションの清掃を受け持つようになり、自分が掃除したところを振り返り「オー きれいになったな」などと一人悦に入ってました。まあ、なんとなくそんな気楽な面もある仕事です。

 余談ながら…清掃の仕事には「後ろを振り向くな」という格言のようなものがあります…

 ある時マンションの清掃中、若い女の人が「ピカピカにしてくれて有り難う」と笑顔で声をかけてくれました。

 私はとても嬉しくなって、ガラスやステンレスをピカピカにするのが好きになりました。なにしろ、掃除をしていて横を通る人に感謝の言葉をかけられることなどは、ほとんど皆無でしたから。

 まど・みちおという詩人の『くまさん』という詩があります。

  はるがきて めがさめて

  くまさん ぼんやりかんがえた

  さいているのは たんぽぽだが

  ええと ぼくはだれだっけ 

  だれだっけ

  はるがきて めがさめて

  くまさん ぼんやり かわにきた

  みずにうつった いいかおみて

  そうだ ぼくはくまだった 

  よかったな

 

 いくつか転職し仕事人生45年。私もようやく自分が何をしたいのかわかったような気がします。

 仕事にはパラダイスはありませんね。希望を持って飛び込んでも、唖然呆然とすることが多々あるでしょう。しかし、だからと言って後戻りはしないことですね。自分で選んでそこで働くということは、きっと何かのご縁があったのですから。

 我が人生の流れに乗った結果なんですから。

 コツコツ、毎日自分の気持ちを込めて働き続けることです。

 この度、退職することを考えて次の仕事を見つけた時、そのようなことに気付かせてもらいました。

 私はきっとこれから先、働き続けられる限りお掃除の仕事をやるでしょう。

 私も『くまさん』と同様、自分というものに気付いて良かったと思います。

 やっと気付けたのです。

 皆さん、お陰様で有り難うございました。」

 送別会でいただいた花。一週間経ったが、元気に咲いている。

 ヨコハマの街よ、しばしお別れ。

 これまで何編かヨコハマのことをブログに書いた。心がウキウキする街だった。

 

 黄昏が、横浜市役所の解体現場を照らし出した。

トンボさん、おやすみなさい

       

 夜中、暑いので寝床から出て窓のカーテンを開けると、羽根を広げて動かぬ虫。

 寝ぼけ眼をこすってよく見れば、蜻蛉(とんぼ)だったわけだが、なんでこの夜中に網戸なんかに止まっているの?

 網戸の網が、蜻蛉の翅(はね)と同じようで、また眼(まなこ)をこする。

 「ようこそいらっしゃい」

 「君も今日はお疲れだね」

 

 「蜉蝣(かげろふ)ともの音絶えし夜を共に」 (𠮷年 虹二)

 

 また、布団にもぐろう。

紫陽花の花輝いて

          

 「あぢさゐの藍をつくして了りけり」 (安住 敦)

 

 7月の盆入り前の日曜日、お参りに来られた方が生い茂った雑草に驚かれると嫌だから草むしりに行こうと墓参りに出かけた。

 いつもは8月の旧盆にお参りする習慣だった。

 この日の墓地は、人が少なく静かな雰囲気だ。曇り空が夏の乱暴な光線を遮り、木々の間を渡る風が心地よい。

 聞き慣れぬ鳥の声が響き渡る中、お墓はすでに小ぎれいに掃除され色鮮やかな花が飾られていた。

 少なくとも一日か二日前に、私たちより早くどなたかがお参りされていた。

 「どなたが来られたのだろう」

 姿の見えぬその方のことを考えつつ、線香を手向ける。

 あちらこちらから鳥の声が聞こえ始め、合唱となった。

 

 妹の墓にそっと花を手向ける方がいる。

 

 妹が亡くなってから知ることが多かった。

 妹は普段は障碍者施設で社会復帰を目指す人たちのために働き、死の3年位前からは病院のホスピスで患者さんとそのご家族の「こころを聴く」ボランティアとして活動していた。

 妹がそのような仕事をしていたことを、私はほとんど知らなかった。そのようなボランティア活動をしていたことは全く知らなかった。そして、妹の周りにたくさんの人がいたことを、私は妹がいなくなってから知った。

 終わりかけた紫陽花が、「さようなら」とお辞儀をしているように見えた。

 

秋の留まる町にて

 「老いてこそなほなつかしや雛飾る」 (及川 貞)

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 「秋の留まる野」と書いて、秋留野。現在のあきる野市。その武蔵引田(むさしひきだ)という町に初めて訪れた3月中旬。          

 とんがり帽子のような山が、春を呼んでいる。

          

 これは何という山だろう。ぽこんと頂上が出てるのが特徴。東京の最高峰の山は2,017mの雲取山だが、遠くから眺めた写真がないので分からない。突き出た山頂の形から1,267mの大岳山(おおだけさん)ではと考える。「鍋割山」とか、最近では「キューピー山」という愛称があるそうだ。

 そして引田駅の駅舎内には、市役所行の緑色ポストがある。住民の利便を考えてのアイデアだ。あたたかい行政だ。

          f:id:hk504:20220317153204j:plain        

 お迎えの車が来るまでに、すっかり長閑な気持ちになってしまった。今日はこれから娘の嫁ぎ先を訪問する。

 昨年の11月に生まれた長女のお食い初めの祝いに招かれた。嫁ぎ先のお家にとっては初孫。

 冒頭のお雛様は、招じ入れられたお座敷で拝見した。曾祖母は「120年前から飾られているんですよ」と、おっしゃられた。お雛様の表情に過ぎた年月の長さ、古さは感じられない。大事に守られてきたのだろう。

 お食い初めの式は、楽しく過ぎた。多くの人に囲まれて、初孫は箸の先についた米粒を食べようとする仕草を見せ、思うように口に入らないと大きな泣き声を上げた。 

       

 このような光景を見て、お雛様も喜んでおられたに違いない。

 縁側には、七段飾りのお雛様も飾られていた。       

         

 ここのお家のお嬢さんが、小さい時に作ったお飾りも並んでいる。

 「なほなつかしい」ことである。

        

 「来ることの嬉しき燕きたりけり」(石田郷子)

 今年初めて見た燕の姿だった。

 人々が、あたたかいものを大切に腕の中に抱えて生きている町だった。

   

 

熱海の湯けむり

 この一年、どこかに出かけることもなく過ごした。部屋の掃除を済ませ春の陽ざしが家の窓辺に差し込んできたところで思い立ち、妻と出かけようと話しがまとまった。3月5日の土曜日、10時14分発の東海道線熱海行に乗り込んだ。

 1時間弱で着いた熱海駅前は、10代後半から20代くらいの若い人が多かった。

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 駅前に置かれた軽便機関車。俳人鈴木真砂女さんがその昔、軽便機関車に乗って伊豆の旅をした話しを思い出す。機関車はこんなに小さかったのか。  

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 熱海プリンやバターあんこ?の店には若い人の長蛇の行列が出来ていたが、裏道に入るとイカの干物を作るお店があり、何故かほっとする。

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 何回も来ている熱海なので、今日は裏道をたどる。

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 小さな旅館や古いビルの谷間に通る細い道。旅館やデイサービスの送迎車が時折通過する。ふと先ほど通り過ぎた道を振り返ると、大きく輝く黄色。今頃木に咲く花と言えば、ミモザに違いない。3月8日の世界女性デーの象徴的な花。やっぱり戻ろうと踵を返した。

 昨年枝切りのミモザを買った際、花屋さんが「ミモザは大きな木なんですよ」と言っていた。なるほど大きな木だった。自然な状態のミモザを見たのは初めてだ。

 ミモザ咲きとりたる歳(トシ)のかぶさり来」 (飯島晴子)

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 古いビルに囲まれた、光が一杯の空き地にミモザの木があった。枝がかぶさるように垂れ、ビタミンカラーの黄色い花が太陽に照らされ眩しい。

 そう言えばと、1月31日は「愛妻の日」ということを思い出した。富山県砺波市で提唱されている。この日はチューリップが奥さんに贈られる習わし。

 私は、今年それが出来なかったので、2月の妻の誕生日に花簪(ハナカンザシ)を贈った。

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  「振り返る足元にあり花かんざし」 (須崎孝子)

 こじんまりとほのかな香りもある花で、慎ましいところがある。

 さて、温泉の街熱海。その変貌ぶりは目覚ましく見え、一時の不況を挽回したかのような賑わいを見せているが、それは一部のこと。まだまだ残る昭和の雰囲気の土産物屋さんや、洋服屋さんはどうだろう。店の人が店頭に出て、行き交う人波をじっと見つめている姿に時代の厳しさを感じる。

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 来宮神社の途中にある「野中の湯」。

 勢いよく湯けむりが上がる。せめて湯けむりシャワーを浴びて、温泉気分に浸ろうか。 

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 熱海には街角にこのように温泉がわき出している所が7,8か所ある。   

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 来宮神社の大楠。パワースポットと呼ばれている。境内はよく整備されていて、きれいな売店やカフェが並んでいる。カフェを利用しているのは、若い女性ばかり。カップルもいるが、「女一人旅」という方も多いように見えた。

 女性を引き寄せるパワーがないと、商売繁盛というわけにはいかないようだ。

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 来宮神社から坂道を海の方向に下る途中に、白いタンポポを見つけた。

 空に向かって咲いているようだ。素朴な美しさを感じる。

 「たんぽぽや日はいつまでも大空に」 中村汀女

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 別荘風のお宅の門のところに、山吹の花。

 「山吹の一重の花の重なりぬ」 (高野素十) 

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 熱海の海。寛一お宮の像は、左手にある。広く白い砂浜で遊ぶ人たち。

 大昔に来たことがある。中学生の時の夏だった。

 どんな理由だったのか、夜、親父とけんかして家を飛び出した。横須賀線から東海道線に乗り継いで、たどり着いたのが熱海だった。よく電車賃を持っていた。

 夜の温泉街の坂道をどうやって歩いたのだろうか。

 寛一お宮の浜辺に出て、しばらく海を眺めていたのではないかな。夏だったから、まわりには花火に興じる観光客もいただろう。

 砂浜は、今のように広くはなかったが、引き上げられた漁船が何艘も並べられていた。夜の海を眺めているうちに眠くなり、やがてその中の船によいしょと足を上げて乗り込み、横になった。身体にかけるものはない。

 おじさんの声が、タバコの臭いと共に近づいて来る。船の床板に身を擦り付けるようにじっと通り過ぎるのを待つ。そのうち、蚊がぷーんと振り払っても振り払っても寄って来た。ずいぶん刺されたと思う。

 朝は、明るくなるとすぐに目が覚めた。ぼやぼやしていると、漁師がやって来て船を海に出すかも知れない。船から這い出して、砂浜にザクッと降りた。

 太陽がずいぶん上がって来た。たまらなく腹が減り、浜辺近くの食堂に入った。広い食堂だった。2階にあったような記憶がある。今のジョナサンがあるあたり。

 そこで食べたアジの干物は美味かった。あの時のアジが最高だ。網の上で焼いて食べた。香ばしいアジの焼ける匂いが、お腹を鳴らす。ご飯がうまい。朝っぱらから一人で食事する中学生を、店のおばさんはいぶかしく眺めていたかも知れない。

 そんなこともあったな。

 私たちは、帰り道に路地裏にあった干物屋さんに寄りアジの干物を土産に買った。自家製とある。

 夕飯の時に焼いて食べた。小ぶりなアジだが、塩加減もよく脂の乗りもまずまずだった。妻に先ほどの話しをしたが、あまり興味はなさそうだった。

 干物を噛みしめて、ちびりちびりと。今宵は、日本酒が美味しく感じられた。

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EMMAちゃんと過ごした24日間

   太陽と 月と 星と 

   海があって 山があって 風が雲を運んでいる

   川がキラキラ輝いている           

   地球は不思議

   お父さん お母さん

   私、

   生まれたよ

  

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 白菜の前にある奇妙な形のものは、野菜である。八頭(ヤツガシラ)といい、里芋の仲間である。味は、里芋はねっとりとしているが、これはほくほくとした食感。関西で正月などによく食べられているそうだ。

 包丁を入れて、なかなか切ることが出来ない頑丈なお芋だ。娘の旦那さんの実家からお土産としていただいた。

 初めて、赤ちゃんの顔を見に私たちの家に訪ねて来られた。旦那さんのご両親にとっては、EMMAちゃんは初孫だ。手を伸ばし、恐るおそる抱っこ。慣れてくると、わが胸に包み込むように抱き寄せ、その顔を覗き込む。

「泣くという音楽があるみどりごを ギターのように今日も抱えて」俵万智

 そう、いくら泣いても、手足をバタバタさせても、すべての仕草や表情や声が可愛い。紅葉のような手。小さな、小さなあんよ。

 ミルクを上げていると、ぐいぐい哺乳瓶を吸う。ぐいぐい飲んで眠る。ただただ生きようとする姿。

 抱っこされながら、私の妻をじっと見つめるEMMAちゃん。見つめながら、時折笑う。その姿は、「癒し」そのもの。EMMAちゃんは、幸せを連れて来た。

 赤ちゃんには、周りの人たちを幸せにする力があることを知った。

 しかし、EMMAちゃんは、いつまでも私の家に居る訳にはいかない。

 その日、旦那さんがやって来た。バッグや紙袋を車に押し込み、娘とEMMAちゃんを乗せる。車のテールランプは、あっという間に遠ざかった。

 そして私たちは、以前のように二人きり。

 部屋の電気を消す。私たちは静かな夜の中にいる。

 娘のいた部屋から、EMMAちゃんのおっぱいを欲しがる声が聞こえるような気がした。

 「咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな」 芥川龍之介